MESSAGE


GHOST(ゴースト)は血を流さない。

血そのものだからだ。

血の亡霊。

ボクはそうとう、生ぐさい幻想に犯されているのかも知れない。

夢の中で出会うと、真紅に溶け出すぞ。



遠藤ミチロウ
(ex.THE STALIN)








言葉がつぶてのように突き刺さる。

変幻自在に大気を舞う極北からの歌声

即興演奏と沈黙の隙間の絶え間なきせめぎ合い

JIM MORRISONとNICOが産み落とした

幻惑のファム・ファタール・・・それが GHOST



鳥井賀句
(音楽評論家/PRODUCER)







    吉原千晶率いるサイケデリック・アコースティック・バンド [GHOST] の自主制作盤3枚からの曲にライブ音源を加えた1st. まるで童謡のような叙情性から即興演奏の要素を取り入れたカオス的世界まで不思議な空間にいざなう吉原千晶の感性に惹きつけられる。
    Weekly ぴあ


    何物にも例えようのない圧倒的な存在感。どうしようもない狂気と、どうしようもない優しさを同時に感じさせるカオティックなサウンドは、正に現代に現れるべくして現れたバンドだ。ロックの衝動と、サイケデリックの恍惚と、フリー・ジャズの衝激を併せ持った [GHOST] のファースト・フル・アルバム。 
    奄美大島・サウンドパル



    Ghost is like taking a trip through a dark enchanted forest at night with a candle in hand. Female vocals swirl around into a euphoric swarm of sounds that grows more and more intense as the songs progress. To be trapped in the world of Ghost is to journey into the deepest parts of your soul.
    Wendy Van Dusen
    Vocalist of Neither/Neither World
    Publisher of Primal Chaos Magazine from U.S.A.



    I'd say Ghost's sounds got in one's ears and color our soul with thousands of tainted voices.It's a pure atmospheric attraction. Ghost's voice and destructured guitar riffs bring you to unexplored landscapes of human behaviour.
    Nosfell
    Minstrel from France



    this music is drilling itself directly into your head. it is incredible how powerfull but breakable, violant and direct at the same time the music of ghost is. performed with a lot of dynamics and precision but also with some kind of punk attitude, it is a grat pleasure to listen to this rockmusic!
    paed conca
    bass, cello, electro acoustics etc, comporser and improviser of BLAST from Switherland







    今日、吉原千晶さん(GHOST)のソロライヴを見に、渋谷ON AIR WESTへ行ってきた。

    千晶さんとは、1年くらいのおつきあいだが、ここんところライヴにも行けず、やっと時間も作れたので、雪と見にいくことにしたのだった。その日は、「Woman's Power」という「レディースバンド」を集めた企画で、まぁ、当然ジェンダー体制に対する抵抗企画という意図のものではなく、単に全員のメンバーが女性であるというバンドを集めたものにすぎない。現に、ぼくと雪が到着したとき、千晶さんの前のバンド(vog/bag/dr.の3ピース)だったのだが、メンバーが全員女性であるという点を除けば(―実はこのことだけでも、大きな意味はある。現在のホモソーシャルバンド体制では、女性だけのバンドを組み、また維持発展させるのがいかに困難なことか―)、演奏のそぶり、弦楽器のかきならされ方、お決まりのエンディング・ジャンプ、その後の「サンキュー!」、これらの様式は、すべて男性のものの借りものと言える。何よりも、そのバンドの演奏、雰囲気、つまりはそのバンドの存在そのものは、なんら既存の体制―強制異性愛、資本主義、家父長制、その他もろもろ―を揺るがすことなく、むしろ周辺から強化するもの、つまりは「安心」なものだった。加えて、音楽的にもぼくの好みではなかったのがとどめの一撃となり、ぼくは退屈な時間をすごした。

    そして、暗転し、彼女がステージに立つ。
    アコースティックギターと、いくつかのエフェクター、なんの変哲もない。ギターがしずかに暗がりの中から流れ始めた。Eの音をルート音にしたAm、および(従来の言葉で言えば)不協和音、既存の読み方/聞き方なら、間違いなく「不吉」を想像させるしずかなしずかなギター。ふと響く千晶さんの歌/言葉「真夏の朝」。

    それは、ほとんどアニメのヒロインが出す猫なで声―男性の妄想によって、声優の声帯を媒体に創り出された声、そしてそれにまた妄想を投射し再生産する、女の奪われた声―だった。まさに「かわいらしい、猫なで声」。直後に、それは恐ろしい声になる。日本の怨霊話/映画で、怨霊となった女が出すような声。(正確にはそう表象されてきた声)その直後には、また「猫なで声」になり、さらに直後「怨霊の声」となる。ギターはあいかわらず、しずかに、「不吉」に奏でる。既存の読み方/聞き方に慣れているひとは、ぞくりとしたはずだ。(ぼくも、相対化の努力をさしひいても、既存のコードに慣れているので、ぞくりとした)

    それは、たとえばミクスチャー音楽のような、単に異なるカテゴライズをされている音楽を自らの快楽にしたがって再配列したにすぎないもの、既存の快楽コードの変種にすぎないものとは、明らかに違う。アニメのヒロインの声も、抑圧された声である。あの「猫なで声」は、男性の欲望に要請されて作られ、さらにその欲望を再生産するものである。そのとき、表現者であるはずの当の声優は、実は単なる媒体でしかなく、自分の自由な表現は不可能である(つまり、男性の欲望コードを侵食しない限りの自由があるに過ぎない。もちろん、その場所にいながらの抵抗はありうるし、わすれなぐさもそれに近い方法論を模索していると思う。)そして、怨霊。女性を幽霊―GHOST―と結びつけるイメージは、何もお岩さんやらお菊さん以来貞子まで続く日本だけの伝統ではなく、たとえば19世紀西洋の植民地言説にも登場する。前者は、男性が安心して消費できる馴らされた表現、後者は男性が恐怖するもの、おぞましいとして棄却するもの。しかし、この一見全くちがう両者がたかだか数秒で結合を繰り返していたのだ。つまり、両者は、根は同じ―抑圧され、棄却された女の声なのである。

    そして、突如。
    ギターが壊れるくらいに、激しくかき鳴らされはじめた。それは、抑えられてきたものの噴出。たちまちのうちに、ぼくの脳裏にある言葉が浮びあがった。「ガイネーシス・女性状無意識」。アメリカの精神分析系フェミニストのアリス・ジャーディンが、クリステヴァの「アブジェクト」理論を文学批評において90年代初頭に展開した概念だ。(日本では小谷真理さんが精力的に紹介し、なおかつ新しい地平を切り開こうとしている)まさに、それはおぞましいものとして、棄却され、あたかも存在のないように不可視にされて、抑圧されてきたものの、噴出である。

    彼女の音楽に対して「狂気」「夢」「血」といった言葉を重ね合わせる人は多い。それらはすべて、「女性的」なものとして、棄却されてきたものだ。平板化した快楽コード(及びいくつかの許容されたバリエーション)に慣れきった人にとっては、彼女の音楽に対して、恐怖を感じないまでも、そういった言葉を重ねて他者化せずにはいられない。なぜなら、その「慣れきった人」にとって、事態は、単にそこに他者が現れたというだけにとどまらないのだ。そこに、棄却したはずの他者が噴出し表現をしているということは、とりもかくさず自らの依存する快楽コードの安定性を安心さを破壊し尽くすものだからである。

    それは、エクリチュール・フェミニン、女の言葉だ。
    もちろん、今更エクリチュール・フェミニンもないとの批判もあるだろう。フェミニズム理論は、すでに一枚岩の「女」など存在しえないことを自覚している。それに、クリステヴァ風の棄却理論や「単なる媒体である声優」論に留まっている限り、いつまでたっても抑圧コードの変革の可能性はない。しかし、何よりも、このいつまでもガンコに強制的異性愛や、その他の諸差別構造が垂れ流しになっている音楽シーンの中では、彼女のような存在は別格であるし、また、今ぼくがしたような分析(あるいはむしろぼくが責任を取る妄想)も充分にインパクトのあるものだと思う。その曲は「イヌワシのように」という曲。

    3曲目の「ハカイ」も、すさまじかった。
    ディレイとフェイザーをここまで効果的に使えるとは。。。いつか、国家、人種、民族、そんなものを飛び越えて、愛しあえる、許しあえる日を夢見て」と言ってはじまったその曲。間違いなくあの9・11に起こった破壊と、報復への「祈り」が念頭にあったと思う。そして、このことは言わずもがな、と言うかほかの方々もおっしゃっていることだが、彼女の歌もギターも、1年くらい前に見たときよりも段違いのものだった。それは、なんというか世界観の創出という点で。(もちろん技術も。)

    吉原千晶、衝撃的なライヴを見せてくれた。ある人は、彼女の音楽を棄却するだろう。ふたをむりやりしようとするのだ。それでも、噴出/表現が止むことはない。ある人は、自らの快楽コードのなかに、それをどうにか取りこんで無害化を計るだろう。つまり、棄却しないかわりに、安心なものへと自分のなかで変貌させようとする。しかし、それはうまくいかない。なぜなら、彼女の音楽はつねに、すでに、既存の快楽コードに不快感/亀裂を走らせるものであり、たとえ取りこまれても、常に、フラッシュバックのように主張を続けるものとなるだろう。

    そして、ぼくは、歓迎する。それは、またぼくが既存の快楽コード、それは権力のネットワークでもあるが、それに対して抵抗する者であり、それゆえ、今までつらつらと書いてきたように妄想してきたのだ。つまり、彼女の音楽を、ガイネーシスの噴出、あるいはエクリチュール・フェミニンとして捉えるということ。しかも、日本の音楽シーンにおいて彼女の音楽、及びそれに対するこれらの分析装置が非常に効果的であるということ。彼女のライヴを食い入るように見てたぼくだが、ふと会場を見ると広いON AIR WESTの50人以上の客のなかで、彼女を見つめていない人はいなかった。それは、とてもうれしいことだった。なんらかの波紋が、それぞれのひとに、それぞれの形で広まっていたのだろう。

    最後に。
    当然のことだが、今まで書いてきたことは、ぼくが彼女の音楽や演奏に対して、分析、あるいは妄想してきたことだ。つまり、ぼくの読み/聞き。彼女は「そんなつもりでやってないぞ〜」と言うだろう。そこのとこを間違えない様に(笑)
    一緒に行った雪は、間違いなく、また全く別の感覚を得ていると思う。そこんとこ、どうなんだい?(笑)









    吉原千晶の今後の活動への期待

    初めて彼女のライブを観た。
    いや、正確には初めてではない。なぜなら、私は、彼女の大学時代の先輩であり、彼女をヴォーカルに据えたバンドに所属したこともあるからである。(予め言っておくと、彼女は自身のHPにおいて、私を「音楽の師」などと持ち上げてくれているが、私は単に、自分の好きなタイプの音楽を紹介したにすぎない。要はレコードを貸しただけなのである。そういえば当時はまだCDは普及していなかった・・・・)

    ただ、大学卒業後の彼女の活動については、発売されたCDについては一応耳を通しているものの、ことさら熱心なリスナーであったわけではないし、基本的には、その一端をHPで垣間見ている程度であったので、偉そうなことを述べる資格はそもそもない。

    しかしながら、ごく最近に聴いた新しいCDでは、音楽的にもその成長は著しいと感じ、できればライブで観てみたい、という気持ちになっていたところ、わざわざ私の住む静岡まで歌いに来てくれるということで非常に期待していたのである。

    ただ、正直なところ、CDを聞く限り、ギター一本でどの程度までの表現が可能なのか、期待の一方で不安もあったことは否めない。一応、私も人並みではあるが、ギターを弾くので、そのあたりの難しさは理解しているつもりだ。

    しかし・・・私の不安はまったくの見当違いであった。それどころか、その歌とギターの表現力の豊かさにただただ驚愕した・・・というのが率直な感想である。特に、「束になっていく」でのギタープレイは、ギター弾きの一人としても「素晴らしい」の一言に尽きた。

    もちろん、それ以上に素晴らしかったのは彼女の「うた」である。初期の録音では、不自然さが耳についてしまいがちだったその歌い回しも、最新のCDではバックの演奏に自然に溶け込んでいるよう思えたし、今回のライブでも、特に後半に至っては、思わず聞き入ってしまうほどの説得力があった。10年前の「うた」とは比べものにならない「凄み」があった。

    私なりに考えてみた。

    私の記憶が正しければ、彼女はHPの中で、「大学時代にはスポンジのようにあらゆる音楽を吸収した」と告白していたように思う。彼女の大学時代を知る一人として、まさにそのとおりであったと思うが、それは10年以上経った今でも変わらないのであろう。そして、今、かつてから現在に至るまでの期間に吸収したそれらものを、一気に噴出しはじめているのではないか・・・・そうであるとしたら、彼女の作りだす音楽の豊饒さが理解できるのである。

    こんなことを言うのは失礼に当たるのかもしれないが、とにかく彼女は「素直」な人間であると思う。だからこそ、あらゆる良質な表現(音楽に限らず)に貪欲であり、吸収されたそれらが彼女自身の中で化学反応を起こし、彼女のあの「うた」となって出てくるのだろう・・・・そう自分なりに解釈したのである。もし、以上の私の推測がはずれていなければ、今後の彼女の活動には一層の期待が持てる。まだまだ彼女の中にある「表現の泉」は湧き出したばかりであろうから・・・

    さて、彼女は、今回の静岡ライブを皮切りに全国ツアーをやっていきたい、と語っていた。是非やるべきだ。実は、私もここのところ全国行脚を繰り返している。とはいっても、ライブではなく、改正民事再生法についての講演である。司法書士という職業に就いているので、彼女のようにライブというようにはいかない。また、まったく性質の異なる分野であるので単純に比較できるわけもない。しかしながら、より多くの聴衆を説得させなければならない点においては概ね同様であり、当然のことながら、相応の積み重ねが必要になってくる。そうであれば、まだまだ彼女の本当の活動は始まったばかりだ。

    以上、10年ぶりに聞いた彼女の歌についてまとまりのない感想を記述してみたが、けしてこれは身びいきではない。一人のリスナーが、一人のミュージシャンのライブで抱いた正直な感想である。

    今後に期待したい。心からそう思えるライブだった。











    地下室に漂う霧のように

    湿った空気を誘い込み、

    ムキ出しのパイプに水滴を彩る。

    彼女達のブルースはそんな場所で

    奏でられるだろう。


    高橋浩二(BLIND LEMON DOG)



    GHOSTの女性たちは皆さまざまな顔をしている。
    赤子をあやす慈母。軍靴を履いた女兵士。
    花売娘。ラクシュミ神。聖母マリア。売女。

    GHOSTの音楽もさまざまな顔をしている。
    平原。夜霧。あたたかな部屋。タバコの煙。
    みずうみ。美術館。戦場。

    さあ。 準備はできた。これらの奏でる交響楽に
    私も貴方も参加するのだ。

    手術台の上のミシンとこうもり傘の出逢い


    小川顕(NUS MACHINE)




    GHOSTに関して人に伝えようとすれば、素晴しい表現力だ。とためらい無く言える。
    ある種の演劇性を持って表わす音楽家に対しては、時折 ヘキエキとさせられる場合もある
    のだが
    GHOSTに関しては、そういった、白々しさを(おしつけがましさを 一人よがりさを)
    全く感じさせない、別物であり、別の道のりで来ている事を 感じさせる。
    ひとつは、無防備だと言える程、開け放たれた、風通しの良さ、だ。
    あれ程、様々な発声や世界やキャラクターが次々とくり出されるのにも、
    かかわらず、
    それは、全て当然であり、的確であり、自然なのだ。
    キャッチコピー的に GHOSTをひと言で表わそうとすれば、
    GHOSTの音楽は、聴く者をひきずりこむタイプのものだ。
    おしつけるので無く、コビるのでもなく ごく自然なたたずまいで
    フワリ、フワリと始めて その場の者を そのマグチから大きく、
    ゆっくりと、素速くひきずりこんでいく、
    その広い世界へ。
    そこにある トゲのキッ先は鋭く、しかし、毒は、ヌられていない。
    そのトゲに刺され、夢からたたき起こされ、彼女達の夢にひきずりこまれるのだ
    その夢 こそが本当なのだと 言わんばかりに。


    浅野ヒロノブ(KILLIN')




    美しかった。声や動きが 自然なカンジで ステキだった。
    他に見たことないです。これからも 又 見にいきます。


    小嶋恵子(MOVE!!)







    《GHOST》。それは、稲生座の花咲く夜に顕われし
    ほのかに光る幽霊たち。

    GON (Guitar. Hormonica)
    そのHarpは、楽しき森の樹々の小枝を鳴らす
    素直な風のよう。
    無垢に澄みわたるその弦にて、二柱の女の狭間に立つ。

    MON(Bass)
    その温かい音色。底打つ丸い大地の響きが、
    幽霊どもの、こごえる調べを包みこむ。
    いとやさしき、かのアルカイックの微笑。
    穏やかにして凄まじき、救いを、
    その眼(まな)に、見つ。

    CHIAKI (Vocal. Guitar)
    ジプシーの女。彼岸の叫び。彼の女こそ、
    GHOSTの歌声。

    炎の闇のように、小鳥のさえずりのように、月明かりのように。

    その姿を、天使とも戦士とも、旅人とも人のいう。されど、
    その歌声は、GHOST。
    朱の哀しみ。蒼の孤独。凍てつく鼓動をたずさえ、
    かりそめの、此の世をさすらう

    《GHOST》。

    『GHOST・1stLIVEに寄せて』by Y.K.




    僕はあるバンドのドラマーである。ここではバンド名をあえて伏せておくことにする。
    その日、彼女はオーバーサイズのTシャツの似合う、きゃしゃな身体の天使だった。いや、天使とは言い難かった。むしろ戦場に立つ一人の戦士だった。
    新たなプロジェクトの初日というのは、演奏者はもちろんだが観る方も緊張する。通常のライブより若干少なめのセットだったが、静かな心地よさを残してライブは終わった。その時「ああ、始まったんだな」と思った。
    一度、列車を降りて、彼女一人の力で新たな列車を探し、また出発をする。口で言うのは簡単だがこれはとても勇気がいるしリスクも大きい。まず一つ目の壁は乗り越えたと言えるだろう。列車が動き出すというのは止まっているよりも困難が多くなる。この先、様々な壁が彼女を襲うだろう。しかし戦士である彼女は必ずそれを乗り越え先へ進むことだろう。頑張ってほしい。
    先ほど「彼女一人の力」と書いたが、それには多少、語弊がある。「GHOST」はバンド形態でありソロプロジェクトではないからだ。つまり、残りのメンバー二人の力がなくては列車を進めることは出来なかったということだ。しかし誤解を恐れずに言わしてもらうと、彼女の歌が「GHOST」であり、「GHOST」は彼女のことを指すと、少なくとも僕は思っている。「歌を聴かせる為の手段」であり、「手段の為の歌」ではないからだ。二人のメンバーに怒られるのが少々怖い気もするが・・・。
    実は僕も今回のライブには数曲、サポートとしてドラムを叩く事になっていたのである。しかし彼女の、本能ともいえる歌を聴かせる為の妥協のない考えにより、今回の僕の出番はなくなった。少々残念だったが、歌のための決断。これが出来る彼女はすばらしいと思う。それにドラマーというのは、一緒にステージに立つと、ボーカリストの「背中」しか見ることが出来ない。この日は客として行った為に、僕は正面から彼女を見ることが出来たわけである。この場を借りてもう一度、拍手をおくりたい。
    共演をするという話が出たので、最後に書かせてもらう。
    バンドのメンバー言わば、戦場における「戦友」である。戦友というのは力を合わせて道を切り開き、前に進むのだが、戦場において「最後の敵は自分」とすればその手前はその「戦友であるメンバー」ということになる。しかし先にも書いたが「ボーカリスト」と「ドラマー」というのは「目的と手段」という大きな違いがある。手段のための「バッキング」を担当する者は目的を生かす為に、自らを葬ることも時には要求される。僕はそれが出来るドラマーでありたい。
    彼女の「歌声」にはそれだけの魅力がある。応援してるよ。

    MATT






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