MUSOU
Written by
Chiaki Yoshihara

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最初の音楽体験は 幼稚園のころ ドライブには井上陽水。
いつのまにか少女は 人生が二度あれば
この頃から 暗い音楽を好んでいたようだ。
小学生のころ ピンクレディを宴会芸として 妹を引き連れ 踊りまくる。 
稽古熱心であった。
山口百恵のしっとりした歌も好み、近所の歯医者さんの昼休み ワンマンショウとなる。

中学で 中島みゆき、荒井由実などの 特に暗い歌を好み ピアノで弾き語ってあそんでいた。学校でも 休み時間になると友だちと大きな声で歌い、遠足となれば 行きも帰りもうたっていたっけ。
高校で RCサクセション。スライダース モッズ ARB シナロケ アナーキー キャロルを知る。清志郎の影響で リズム&ブルースをかじる。
オーティスとブレイクダウン(京都のブルースバンド)を 子守歌にしていた。

受験戦争  ラジオからロックの洗礼を受ける。
ジャニス ジミヘン ジムモリソン  彼らの生き様に驚く。

受験で上京。2週間の体験が人生を大きく変えた。
ローリングストーンズとの本格的な出会い。
まさか アメリカ追っかけ旅行したり キースのピックを 拾ったりするなんて この頃 思ってもいなかったけれど。ストーンズ本と ビデオと  はまってしまった。

長崎へ帰ってきて春休み中 ストーンズ一色。
初めてギターをひいてみたりして、アンジーをうたって みたりして。

大学入学 音楽サークルでの出会いが すべてのはじまり。
ストーンズのコピーバンドに加わる。まさに スポンジ。
先輩から あらゆる音楽を吸収した。小田急線の電車の中で たくさんの歌を覚えた。
初めて タワーレコードで買ったレコードは わたしのルーツである。
ドアーズのファーストとセカンド ディランのハイウェイ61とブリングイットオールバックホーム  ジャニスのコズミックブルース  アレサのベスト オーティスのベスト  チャックベリーのベスト ボブマーレーのエクソダス と サバイバル  マディとウルフとボーのセッションアルバム

リズム&ブルース ロックンロール ブルースのカバー オリジナル
という方向性でサークル外での活動も始める。
当時の相棒ギタリスト秦野氏は 今も良きアドバイザーだ。

卒業後 バブル真只中 就職活動せず 親を泣かす。
バイト生活と 音楽の日々。 
タバコ 酒 不摂生がたたり 胃潰瘍を患い、一時帰省療養。
そのころ ジムモリソンとビリーホリデイに強く魅かれコピーしていた。
このスタイルが 自分に合っているとは思っていたが それまでのジャニス ミック的スタイルを 捨てるに至らず。

ショーケンを知り 壁にぶちあたる。
アンドレマルローライブのビデオは ストーンズのレッツスペンドと同様に はまった。
そして これほど感情を表現できた人がいたとは と 自分の道を 見失った。 
一時活動休止。

数ヵ月後 再びギタリスト秦野と動くが形にならず 彼は病に倒れ、いまだに故郷にて療養中。

その後 バンド探しのセッションの末 スクリーミーバッパーに加入。 
ベースもんちゃんと出会う。
3年間のライブ活動で 多くのものを得る。
今となっては ジャニス ミック的スタイルは わたしにとって 自然体の歌ではなかったと 気づく為の過程だったように思う。

何のために歌ってきたのか。本当にうたいたいのか。
まるで自分を信じられず 存在の理由がわからず 全否定状態。
歌うことは苦痛になった。

一枚のCDが わたしに光をあてた。  ゴーンアゲイン
パティスミスのこのCDによって わたしは少しずつ再生していった。
来日公演では次へのステップへの勇気をあたえてくれ、進むべき道を暗示していた。

二度とステージに戻れないかもしれない、と覚悟の上 スクリーミ−バッパー脱退。
数ヵ月 音楽拒否生活に入る。
本当にわたしにうたは必要なのか。
わたしのうたとは何なのか。
日々の生活の中 何かが来るのを ただ待っていた。

98年4月 パリ ペールラシェーズ墓地にて ジムモリソンを偲ぶ。
わたしの世界を表現するために わたしは生まれてきた。
あちら側をみてみたい 知覚の扉の向こう側を。

そうして ゴースト結成となる。